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腐りきった組織で、ただ声が大きい者が強いのはなぜか?

小さな組織にいる。

田舎の社会の片隅だ。

だが、それは例え六本木ヒルズだろうが場末のスーパーマーケットだろうが、そこには集団が形成されている。

とにかく人間というものは複数集まると大して良いことはおきないというのは歴史が示している。

 

僕の決して多くない社会との会合の中で感じたこと、それはある一部の人間によって組織が大きく操られてしまうということだ。

特にNOともYESとも言わない日本人の集団では、この傾向が顕著に出るのではないだろうか?

兎角、日本の社会は声が大きい者が強い。

当たり前だが周りの目ばかり気にしてしまいがちな国民性がそうさせるのだが。

その声が大きい者が強いのはなぜかをまず考える。

 

 

責任の変遷

組織において何かしら行動を起こす時、そこには複雑な準備がいる。

そんな中で一番組織の指向性を決めるのが『責任』である。

行動は結果を伴う。

そして殆どの行動は100%思い通りには運ばない。

だから好き勝手に行動してしまえば良いという訳にはいかない。そこには生活がかかっているからだ。念頭にはないかもしれないが、生活を維持することこそ生きるための最低条件である。人間は恒常性を求める。

 

その『責任』をどう処理するか。

責任とは行動の始発点であるから、責任をどこから発し、どこに置くかというのがまず決めなくてはならないことだ。

責任がない行動とは子供や認知症の老人くらいしか取れない。これが今の社会だ。

社会が高度にシステム化されているということは、責任がついて回る。だだっ広い荒野に一人でいるなら何をしても構わない。

 

その責任を明確に確認できるかというとそうではない。

高度なシステム化=分業化によって本来の意味の責任は小さく分散化されてしまった。そもそもかの全権委任法を受けたヒトラー総統ですら、全てを把握することが出来ずに部下に権限を振っていた。

高度なシステム化の弊害は、全てを把握することと全てに命令を出すことに多大なコストが掛かることだ

 

ということで責任は、書類やハンコによってうまく目が行き届いている「ように」することで、本来責任を追うべきではない下の方へ、責任者が不明瞭な未熟な集団まで降りてきた。

 

ここで小さな集団に曖昧にパッケージ化された責任が降ってきたのだ

 

 

責任の扱い方

 

ではその責任をどう扱うかだが、これには大きな試練が待ち受けている。

平等化の元、階級や格差が無くなった現代において、かつての徒弟制度のような圧倒的でわかりやすい差がなくなった。そして分業化で小さな集団の名目上の責任者だとしても、一人で全てをこなすことは不可能になった。

ここで責任とは、本来の目的である行動への始発点であり推進剤という目的を失う。

責任は業務を円滑に行うために立ちはだかる障壁となった。

謂わば迷惑なものになってしまったのだ。

不明瞭な責任をかぶるということは、不安でしかない。そしてそれを他人に押し付けることは複雑な人間関係に取っては「気まずいモノ」となってしまった。

 

要するに不明瞭になった責任を受け取るのが不安であり、また助け合わなくてはいけない集団において人間関係が行動よりもまず大事になってしまったということだ。

 

ここできちんとしたリーダーシップが取れる上司だと、何とか上手く行動へ移すことができる。

上司には、カリスマでも恐怖でもお人好しでもなんでも良いので、人間関係を上手く把握し、責任を上手く擦り付けることができる能力が必要な時代になった。

しかしそんな上司がいない集団、それは流れの悪いドブ川のようになってしまう。

 

 

 

声が大きい者が強いのはなぜか?

 

ドブ川集団は他人の目の色を確認してからでないと行動に移せなくなる。

下手をしたら上司に責任を無理矢理に擦り付けられるか、集団から弾かれてしまうからだ。

一蓮托生だった集団は、単なるババ抜きゲームになってしまう。

 

こうなると頼りない上司に変わって、自分で集団を動かさなければならなくなる。

それは集団の中でうまく立ちまわるという内的な動きか、集団を操る外的な動きのどちらかしかない。

少しばかり例を並べる。

 

内的操作

・社会的な権威を使う

年功序列や性別等、本人の能力に関係のない大きな権威を使って自らの発言力を強めようとする。発言力を高めて集団を引っ張っていくのならまだ良いが、大抵はその逆で自分の安全しか考えていない。

謂わば責任から逃れるための能力のない自分への権威付けでしかない。

 

・ゴマすり

上司や年長者にへつらうことで責任から逃げ続ける。

声の大きい者の近くにいることで、情報を仕入れ、その中で自分だけ上手く立ち回ろうとする。

 

・はっきり物を言わない

判断と立ち位置を曖昧にし、他人の目をそらす。

降りかかってきそうな責任に対して、時間や意思を曖昧にして取り繕うことで、その場しのぎする。

 

・自分で作ったキャラクターを押し付ける

自ら行動範囲を限定することで、責任回避の言い訳を作る。

自己卑下から主観の押し付けまで幅が広い。

 

 

外的操作

・恐怖感を植え付ける

自分の思い通りにならないと感情を爆発させる。

人間関係の失敗体験を恐れる現代の特質を逆手に取り、相手に最初から不安感を押し付ける。

 

・悪口を言いふらす

噂や文句を人間関係内にばら撒き続ける。

他人を卑下することで、自分の権威と正当性を得ようとする。

また情報を操作することで、都合の良い環境を作ろうとする。

 

・大きなものに言いつける

上司や団体などに自分の不満や集団内の人間関係を言いつける。

正義感を装いながら、自分の待遇を押し付けて操作する。

 

あくまでも大雑把に分けたもので、内的外的操作を上手く使い分けることがほとんどだ。

しかしこれは組織内の不安定な立ち位置に対する防衛本能なので、集団をきちんと目的意識ある盤石なものにしていない本当の責任者の能力不足といえる。

 

そして閉塞感ある集団だと、外的に圧力を加えて操ろうとする人間が強くなってしまう

外的操作は本来の責任への反作用ながら新たな責任を生み出しているからだ

その新たな責任は、内的操作型の人間が集まりやすい。

曖昧な本来の責任よりも盤石に見えるからだ。

謂わば、外的操作は後出しジャンケンといえる。

本来の責任よりも強く、不安定な責任からの逃避という、逆説的に正しい行いだからだ。

 

声が大きい者が強いのは、こういった組織内の不安の代弁でもあるからだと思う。

 

 

まとめ

 

組織を乱す悪であるはずの声が大きい者は、組織運営に対しての不満の声が大きい者でもある。

トップはこうした人間を厄介扱いするのは当然だが、そこにあるのは責任を曖昧にしてしまっている自らの失敗でもある。

しかし、こういった自己本位型の外的操作をする人間は、どんなに良い組織にも入り込む可能性がある。

そしてこういった人間が支配する集団に後から入って来る者ほどが哀れでならない。

 

不満は誰にでもあるが、それを手段として利用する人間が生み出した新たな責任に庇護を求める人間、それこそが組織の癌である。

 

でもこれは日本的労働環境の悪しき公私混同が最大の原因でもあるように思うのだが・・・